
< 追悼文特集4★「ぶらり写真術入門」(6月20日)掲載 >
▼写真家 松尾忠男
柳原和子さんを悼む
ドキュメンタリー作家・柳原和子がこの世を去った。今でも半信半疑だが、事実だ。時は2008年3月2日である。享年57歳の若さだった。僕は新聞で見たという妻からその訃報を聞いた。「そうか、ついにか」と思っただけで、それ以上の精神的な波動は感じなかった。その時にはである。それから、徐々に、彼女の死を受け入れようと、そうすればなお、彼女との出会いから始まったまぶしいほどの青春の日々を追想することが多くなった。
訃報を聞いてから既に3ヶ月以上にもなる。何か大きなものを失ったやりきれない寂しさだ。やはり、何かをしなければ自分の中で決着がつかないような気がして、もんもんとする。ここにきてやっと追悼文を書く事で少しは自分の気持ちに決着を付ける事ができるかも知れないと思うようになった。
我々は、たかが数十年の人生で、全世界人口60万人の中の、果たしてどのくらいの人と重要な関わりを持つのだろう。十万人?一万人?千人にしてもたかが知れている。実際にはもっと少ないだろう。本当に大切な人との巡り会いは十数人といっても過言ではないかも知れない。その大切な人の死に直面することは、その人との生前における関係を総括し、その存在の重要性を再確認する事がせめてもの死者への悼みであり、自分への慰めでもあろう。僕は数日前ぐらいから彼女との出会い、彼女と過ごした青春、過去のそうした輝きし時を考え始める作業を無意識のうちに始めていた。
柳原和子との出会いは、今や死語に等しい表現だが「見合い」だった。といっても実は後で知ったのだが、簡単にいえば、僕の友人の写真家・M氏が仕組んだものだった。僕はM氏にオンナを紹介して欲しいと頼み、ちょうど柳原和子の方もM氏にオトコを紹介して欲しいと頼んだことが重なり、M氏宅で一席設けてくれて「見合い」となったのである。また、別の表現では、単なる友人の紹介と言えばそれまでとも言えようが。
その頃、僕はニューヨーク帰りの写真家として、柳原和子はカンボジア取材に熱中しているドキュメンタリー作家として、お互いに駆け出しだった。僕らはすぐに意気投合した。ちょうど僕はコニカ(現コニカミノルタ)後援による写真展「New York」の企画が決定していて、僕のこの「New York」シリーズ作品は、世界的にも最大発行部数を誇るアメリカの有名な写真雑誌「Popular Photography誌」で特集を組まれたものだったから、僕が何をするにもコニカギャラリーに対して自由に発案できた。そこである事が頭にひらめいた。
「僕の作品に詩を付けてみてくれないか?」と柳原和子に誘いをかけた。
すると、即座に「うん、やりたーい」と言う返事がかえってきた。
柳原和子の詩とコラボレーションすれば、彼女を非常に良い形でコニカにも紹介できる。彼女は自身で写真も撮っていた。そして、僕の作品の何点かに「詩」も付けてくれた。その時、僕の作品は彼女の分析によれば子宮回帰型だといっていた。子宮回帰型とはどういうことか?子宮回帰願望があるとうことだろう。それなら人間誰しもそうであろう。子宮の中ほど安全で、安心できる場所はない。僕にはその性格が特に強いということか。なるほど、当たっているような気がしないでもない。
この写真展は大変評判がよく、その後、コニカの本社がある新宿の野村ビルの特設ギャラリーで、特別アンコール展も開催された。
そうして柳原和子は僕の紹介が元で、その後、やはりコニカギャラリーで「カンボジア」の写真展を開催した。もう、その頃には何かにつけ毎朝のように彼女から電話があるようになっていた。僕も電話した。
飲み歩きもした。彼女が飲み代に困った時には、僕の財布(いつもたいした額は入っていなかったが)を取り上げ、「貸してね」といって、中身を全部かっさらった。返してくれた事は無い。その代わり、お金がある時には容赦なく美味しいものを御馳走してくれた。それほどお金には無頓着だった。
飲むと、飲酒運転だが、いつも僕のポンコツ愛車で彼女を送っていった。その間、時には助手席で、天使の悪戯のような愛くるしい表情を見せた。そう、柳原和子と知り合った人なら誰もが感じるであろう、あの可愛さである。それは彼女が無邪気な子供のように美しく輝き、ひまわりのような表情をする瞬間であった。酔っぱらったあげくにそんな表情をして彼女は
「あなたのお嫁さんになったげる・・・・」と時折り口にした。
冗談とも、本気とも受け取れる様子だった。
しかし、僕の方はその頃には、彼女がいつも何かに怯えている事を知っていた。彼女の母親がガンを病み、47歳の若さでなくなったことだ。自分も多分ガンを発病するだろうと予言めいたことを言っていた。それへの恐れを僕は彼女の口から何度も聞いていた。だから、彼女の方からも一線を越える勇気が持てなかったのだろうし、僕の方も、既に本能的に一線をひき、本当に敬愛できる、最も親しい友人、時折女の色気を猛烈に感じさせる友人としてのみ彼女を見ていた。でなければ、男と女の関係に至る機会は山ほどあった。長く続くかどうかは別として、どちらかがある種の覚悟を決め、一歩でも踏み出していれば、あっ言う間に一線を超えたであろう。彼女のアパートで語り合うだけの一夜を過ごしたこともある。もう、お互いに衝動的になれるタイミングの時期を逸していた。だから、「あなたのお嫁さんになったげる・・・・」という彼女の言葉に、僕はいつも「無言」という行為で応えるほかなかった。
ある日、柳原和子が「あなた写真家のK氏を知っている?」と聞く 「ああ、彼は芸大出身で「0000」を撮って今では有名だし、写真もすごいよ」といったら、しばらくすると、K氏が好きになっちゃったと言い始めた。コニカギャラリーで紹介されたらしい。それから、暫くの間は、僕は彼女の恋の相談役である。明けても暮れてもK氏、K氏である。一度はK氏と僕とで汗だくになりながら彼女の引っ越しを手伝ったことがある。しかし、幾ら僕が恋の相談役とはいえ、彼女とK氏が何処まで深い関係になったかは知らない。 そして、しばらくすると電話の向こうで泣いている。恋が終わったのである。柳原和子の方から終止符を打ったのであろう。K氏は妻帯者だ。ただ、恋の終止符よりも、彼女が電話の向こうで泣く時は、主として自分の文章や作品のことで誰かとやりとりをしてケチを付けられた時の方が多かった。決して妥協を許さない真摯な性格が彼女を悔しがらせ、泣かせるのである。
さて、僕にとって、柳原和子との関わりの中で、いまでも「素晴らしい青春」として輝き続けている時代がある。
それは柳原和子が編集長となって月刊雑誌「Fit」を創刊し、僕もそのスタッフの一員として加わって活躍した時期だ。
良いとこ取りの企画ものは大概僕に撮影させてくれた。彼女の編集長ぶりは、知性に満ち、企画力、決断力もあったが、なぜだか編集会議ではいつも目の周りにクマを作っていた。睡眠不足の所為であろう。
飲む機会も頻繁だった。飲むと必ず議論した。柳原和子には妥協という言葉はなかった。顔ぶれはいつも、彼女を含め、読売新聞社の社会部記者にI氏、当時映画評論の連載ページで関わっていた小沢章友氏(後に開高健賞を貰って作家となり現在活躍中)中島真澄女史(エッセイストとなり現在活躍中)や僕などの他に、必ずゲストとして誰かがいた。
そのゲストが、学者だが若きタレント要素を持つ著名人の時もあった。さあ大変である。彼女が今度はその著名人N氏に惚れ込んだ。僕に朝っぱらから電話をよこしてN氏、N氏である。車の中でもN氏である。でも、それも長くはなく、そして、どこまで本気だったかは僕にも分からなかった。柳原和子は寂しがりやだから、いつも誰かに惚れて、恋をして、にぎやかなことが好きだった。
月刊「Fit」の編集が予算削減の関係で他社に持っていかれてから、その時期から柳原和子との付き合いも次第に遠ざかっていった。僕の方は今の妻と結婚し、恵比寿に株式会社スタジオZENを構え、雑誌やコマーシャル撮影の仕事で忙しくなっていた。だから、彼女の噂はメディアや他の友人を通して知るぐらいであった。そして、時折無意識にテレビのチャンネルを変えていると柳原和子が出演したりしていた。
彼女の予言通り、彼女も47歳で母親と同じ卵管ガンを発病し、闘病生活を余儀なくされながら執筆した作品「ガン患者学」はベストセラーになった。だが、彼女にとって苦しい妥協の部分もあったろう。既成メディアの枠内の表現でなければ、ベストセラーにはならない。とはいえ、すごいなあ、凄まじい戦いだなあ、と僕は遠くから見ていた。
柳原和子は激しく、熱く、寂しがりやで、泣き虫、凄まじい人生を戦い抜いた女性だ。彼女には57年という人生を生き、束の間でもいいから、温和で、安らかで、幸せな時間があったのだろうか?と疑問に思う時がある、いつも独りで泣いたり、喚いたりしながら何かと戦っていた。それも凄まじいバイタリティーのある戦いぶりだった。
彼女は一生独身を通した。
「あぁ。木に出会いたい。海に出会いたい。光を浴びたい。自然を取り戻したい。贅沢な希望」
2月初めのこれが最後の文章だったという。
彼女はもうあの世だから、この世のここにも一人、彼女の死を悼む男がいる事を知るまい。
僕が先に死んで、彼女が僕の死を知り、こうして僕が書いているように、彼女は僕への追悼文を書いてくれただろうか。いや、それはない。柳原和子はあまり後ろを振り向く人ではなかった。そして、僕が彼女にとってはそこまで重要な存在であったとも思えないから・・・・・。それはそれでいい。
逆に、朝日新聞社の太田啓之という人は追悼文で書いている。
「今の世の中では圧倒的なマイノリティーに属する「覚悟ある人」の一員であろうあなたが、柳原和子と出会えたのは幸せだと思う」