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< 追悼文特集2★『婦人公論』(4月7日号掲載)>

▼ノンフィクション作家 後藤正治

 柳原和子さんを悼む

 柳原和子さんの著書との出会いでいえば『「在外」日本人』が最初である。世界各地で暮らす日本人百余人への大部のインタビュー・ノンフィクションであるが、一読して図抜けた仕事だと思った。異郷の地を終の住処と定めた人々へ問いかけていく。あなたにとって異郷暮らしはなんであるのか、祖国日本はなんであるのか、そもそもあなたは何者であるのか――と。労作という言葉があるが、まさしく労作であって、取材に足掛け四年を要したとある。

 後年、彼女に会ったさい、この長大な仕事を持続させたモチベーションはなんだったのか、と尋ねたものだった。

「さあ、なんだったのか、いまもってよくわからないところがある。エリートと呼ばれる駐在員も取り上げてはいるけれども、多くは私の中でどこか引っ掛かった人たち。よるべなきというか、居所なきというのか、満州浪人の戦後版といおうか。そんな人たちに心惹かれた。そのことがどこかで私と重なっていた」

 この答えを耳にしたとき、ふっとこの書き手の内部世界が垣間見えたように思えた。

 十余年前、彼女は東京の住まいを引き払って京都へとやって来た。同じ稼業、同世代ということもあって、交友が続いた。編集者や知人たちを交え、大文字の送り火を見物し、保津川下りを楽しんだ日もある。振り返れば、随分と酒席を共にし、馬鹿話を繰り返し、議論をした。一本取ったつもりでいると、お返しに数本取られるばかりであったが、そんな応酬が楽しかった。

 資質としていえばむしろ遠いものを感じていたが、現状への状況認識には近しいものがあった。

 戦後間もなく生まれた世代、胸を張って誇れるものは何もない。ろくでもないわれらであるが、それでも嫌いなものは共通していた。この国にいつも漂う獏とした空気、一言でいえば強いものには巻かれろとする精神の卑しさが共に嫌いだった。言葉以前のところで通じ合っているところがあった。

 やがて彼女はがんに侵される。まことに不運なことであったが、もの書きとしていえば必ずしもそうではなかったと思う。「がんになって良かった」という言葉を幾度か耳にした。もとより逆説ではあるが、本心でもあったと思う。

 他者ではなく自身を見詰めるなかで物語を綴ること。最大の国民病であるがんを扱うことは、“私ノンフィクション”にとどまらず多くの人々の運命と連なっていく。従来の仕事のレベルを深化させる、渾身格闘すべきテーマと出合ったのだと解することもできる。徳俵に立っての仕事が迫力に満ちたものとなったのは当然だった。

ハラハラドキドキが柳原流であった。こちらが泉下にたどり着いたときにやり込められるのを承知でいえば、多分にその<過剰さ>ゆえである。過剰に踏み込み、過剰に期待して傷つき、過剰に寂しがる――。“難儀な奴”。それが柳原和子だった。

 それは彼女の欠点であったが、一方、そういう過剰さがあったがゆえに、『がん患者学』『百万回の永訣』などの作品群が残されたのだとも思う。

 担当医師たちと本音で渡り合う。医師たちは相当に辟易したであろうが、結果として共同作業を促し、現段階での医療の到達点を明らかにしていく。また他のさまざまな代替治療に光を当てていく。

 他のがん患者とも誠実に付き合っていた。呼ばれれば遠くの地にも足を運んでいた。自分だけのことを心配していろよ、といったことも一度や二度ではない。

 従来のがんの物語は、大別して、医師・研究者のがんとの格闘史をたどったもの、あるいは患者の闘病記に分けられようが、彼女は闘病者であり、治療最前線の探求者であり、さらに自身の内面を凝視する実存者であるという多面的な位置からがんとの物語を綴っていった。

 こうした力量に支えられた仕事は、結果として私たちに恩恵を残してくれるものとなった。依然、がんはやっかい極まる病であるが、いまやさまざまなる対抗手段を有していること、正規戦もあればゲリラ戦もあること、医師と患者の対等なる関係性のなかで最良と思える治療手段を選択していけること。そして、たとえ治癒しなくとも、ときに自身を深め、人生の充足さえもたらしてくれることを身をもって伝えてくれたからである。

 最後、病に倒れたことを思えば、結局はがんに敗れたといえようが、得たものとの差し引きからいえば“痛み分け”といいたい気がするのである。

 私個人ががんと付き合う彼女から得たものは、<有限性の意味>である。残り三年、一年、半年……カウントが鳴るなかで生きることは過酷ではあるが、だれも無限の時間など有していない。残されたる時間、何に費やすべきか――。有限性の自覚は生の充実という意味で決して悪くはないと思えた。

 さらに個人的な恩恵ということでいえば、東京オリンピック女子体操のヒロインを主人公とした拙著『ベラ・チャスラフスカ』の終章を、小野田勲という日本人に登場してもらって締め括ることができたのはまったく『「在外」日本人』のおかげだった。

 小野田氏は長くチェコ・プラハに住む商社マンであるが、戦後最大の反体制運動、六十年安保闘争を主導した安保ブントの結成にかかわった“伝説の男”である。自身を語ったのは『「在外」』がはじめてであったろう。

 プラハの古い地下ビアホールで、チャスラフスカその人について、その意味するものについて、社会主義国の実相とその崩壊について、意見を交わした。「プラハの春」から「ビロード革命」に至るヨーロッパ現代史の目撃者の見解に接したことはおおいに有益だった。「柳原さんの友人」という一言の効用だったように思える。

 二年前の春、彼女から、久々に小野田氏が来日しているとの連絡を受け、三人で昼食を共にした。小野田氏は体調を崩されていた。彼女がおせっかいなほどにその善後策に奔走したことはいうまでもない。ここでも柳原流は変らなかった。

 この一、二年、顔を合わす機会は限られてきたが、会うたびごとに、これが最後かも、と私は思っていた。彼女も口に出すことはなかったが、そう思っていたろう。最後の機会は昨秋、京都・四条木屋町にある古い喫茶店であった。

馬鹿話の合間に、病状が思わしくなく、緩和ケアのある東京の病院に入るかも知れないと口にした。それからまた馬鹿話に戻ったが、いよいよ別れを告げにこられたかと思えて切なかった。

 それでもなお、タフなカズコのこと、また今回も乗り越えてくれるものと私は半ば以上信じていた。無念である。同じほど、この世でやるべきことをやりきって逝ったのだという思いがよぎる。言い残していることもあるが、泉下での反論も手厳しくあろう、応酬のネタに残しておきたく思う。

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