
< 追悼文特集1★毎日新聞掲載 >
▼毎日新聞社会部編集委員 萩尾信也
妥協を許さぬ生き様 柳原和子(やなぎはら・かずこ)さん
旅立ちの朝は、病室の窓辺に置いた鳥かごで文鳥が歌を添えた。東京都内の緩和ケア病棟。姉と2人の友人にみと られて、安らかな最期だった。
20歳の春、卵巣がんを患った母親が、闘病の果てに47歳で早世した。治癒の見込みがなくなった時の医師の手のひらを返すような態度に憤り、「母と同じ年齢でがんになって、物書きとしてすべてを記録する」と心に期した。
私が彼女と出会ったのは80年春、カンボジア難民のキャンプだった。その探究心と行動力に圧倒された。帰国後、難民の子供の記録を本にした。ほどなく、40カ国を旅して在外日本人の物語を出版。四国巡礼、医療過誤、薬害エイズ……。精力的に取材を続け、再会した時は、物書きの心構えと葛藤(かっとう)を熱く語った。
母親の享年に達した春に、くしくも同じ卵巣に悪性腫瘍(しゅよう)が見つかる。以来10年、自らの闘病の軌跡にがん患者へのインタビューを重ねながら、心の痛みに寄り添おうとしない現代医療の実態を「がん患者学」などに記した。医師と対等に渡り合う知識を身につけ、闘病記の域をはるかに超えた数々の作品を残した。
03年冬に再発。昨夏まで執筆を続け、秋には「安寧に暮らしたい」とすべての治療をやめた。年明けに体調が急変し、京都の家から文鳥を連れて入院した。1月末に、病院に友人や支援者を招いてパーティーを開く。白いブラウスを着飾り、ふらつく体をおして、最後まで立ったまま別れのあいさつをした。握手した手に意外なほど力を感じた。
「遺灰は伊豆の海にまいてほしい」。生前、遺言を残した。妥協を許さぬ生き様にたもとを分かつ人もいたが、素顔は繊細で心優しい、寂しがり屋だった。
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