
▼ 朝日新聞社 太田啓之
僕にとって柳原さんは、自然にあるでっかい岩石のような存在だ。ゴツゴツしていて、容易には形状を把握できない。別の角度からみればまるで違う形に見える。座り心地もよくないけど、しばらくすると陽光に温められたほのかなぬくもりが伝わってくる。うまく言えないが、まあそんな感じだ。
柳原さんへのインタビューを記事にまとめようとして、えらく苦労したことが2度ほどある。何とか「商品」としての体裁は整えたが、僕が柳原さんからいつも感じている生々しい情念、敢えて陳腐な言い方をすれば「たましい」とも言うべきものは、記事の中からは消えてしまっていた。
新聞は基本的に読者に対して「手軽な納得」を提供することを求められている。複雑な問題を手際よく整理し、読者に選択肢や正解を提示する。何が書いてあるのか、一読しただけではよく分からない記事は落第だ。
柳原さんの言葉は、それとは逆だ。柳原さんはいつも、世の中の不可解さ、不思議さ、計り知れなさ、そして理不尽さとあらん限りの力でとっくみあい、それを何とか言葉の世界に置き換えようと苦闘している。何度も同じところをグルグル回っている時もあれば、突然別のテーマに跳躍してしまったり、さっきとはまるで逆のことを語っていたりすることもある。メディアが整理し脱色した情報を口を開けて待つ習慣が身に付いてしまっている人々にとって、彼女の言葉は到底咀嚼不能だろう。
しかし、実は誰もが心の奥では了解しているように、自分が本当に感じている生き難さ、何としてでも解決したいと感じている問題と取り組むには、柳原さんのアプローチが唯一のやり方であって、他の選択肢はないのだ。
だからこそ、柳原さんの作品は、そうした問題に真摯に取り組もうとする人の伴侶となりうる。世の中に流通する安易な言葉や解決策を信じられなくなった人たちのためにこそ、彼女の文章はある。
彼女の作品の中に、あなた自身が抱える問題への答えはない。彼女の作品は、彼女自身にとって本当に切実な問題を彼女なりのやり方で追いかけ、突き詰め、それでも答えが手元からすり抜けていってしまうということの飽くなき繰り返しの記録でしかないからだ。
しかし、自分の足で立ち、自分で問題を解決しようという覚悟を決めた人にとって、これほど示唆に富み、力を与えてくれるものはない。あごは疲れるけど、噛めば噛むほどに滋養が溢れ、確実に血肉になっていく。
今の世の中では圧倒的なマイノリティーに属する「覚悟ある人」の一員であろうあなたが、柳原和子と出会えたのは幸せだと思う。